お別れのことば

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畚野 信義

 長尾君と私は1955(昭和30)年の春、工学部電子工学科に入学しました。

 以来60数年の付き合いの中からいくつかの思い出をお話して長尾君へのお別れの言葉にしたいと思います。

 当時は1,2回生が教養学部、3,4回生は各学部・学科とカリキュラムがハッキリ分かれており、1回生は旧軍の火薬庫跡の宇治分校、2回生は旧三高の吉田分校で講義がありました。

 今は雰囲気もスッカリ変わってしまいましたが、当時の宇治分校構内には防爆のための幅3m以上、高さ10mほどの頑丈な煉瓦壁がアチコチに立ち並び、その間をトロッコのレールが張り巡らされていました。

 長尾君と私はクラスが違ったので1回生の間はお互いに全く知りませんでした。2回生になって早朝の京都駅前の市電乗り場で毎日顔を合わせる男がいました。角帽に学生服、京大とT(工)のバッジを付けていました。

 それが長尾君でした。

 ハッキリした記憶はないのですが、長尾君から声を掛けてくれたように思います。

【当時大学生はホボ全員卒業までの4年間学生服を着ていました。角帽は少なくとも入学時は殆どの学生がかぶっていましたが、日が経つとダンダン減り、電気・電子の私の同級生の場合、卒業までかぶっていたのは約80人中タッタ一人でした。】

 彼は東海道線の野洲から国鉄で、私は西大寺を経由して奈良電(現在の近鉄奈良線)で通学していました。

【長尾君の父上は神官で、当時は俵藤太が大ムカデを退治したという伝説のある官幣大社野洲神社の宮司でした。後に橿原神宮の宮司になられました。神武天皇を祀る橿原神宮の宮司は、戦前と言うか敗戦までは、平民が成れない高いポストでした。父上も優れた方だったと思われます。】

【私達が京都駅前で市電に乗るのは7時15分くらいでした。京都駅から京大まで市電が約30分、講義は8時から始まりました。】

 当時早朝の電車はそれほど本数が無かったので何時も京都駅で一緒になり、2回生の時は6番(東山線)、3,4回生と大学院時代は2番(河原町線)の市電で毎朝30分ほど隣り合わせに座り通学していました。その間毎日熱心に話し合っていたという訳でもなかったのですが、彼は私にとってその後もズットいちばん身近な同級生でした。

 長尾君は首席で卒業しました。

 ガリ勉の雰囲気は全く無かったのですが、それを知った時同級生の誰も不思議に思いませんでした。振り返ってみると彼は何時も同級生と普通に付き合っていましたが、勉強は人一倍やっていたのでしょう。やはりその頃から彼は大人でした。同級生の共通の認識でした。

 去年の2-3月頃でしたか、松本(紘)君【長尾君の2代後の京大総長、私の高校の後輩で、彼が大学院生の頃何時も内之浦の実験で一緒でした。】から電話があり、雑談の中で「長尾先生が家で倒れられた」と聞きました。その後音沙汰がないので骨折でもして寝たきりになり誤嚥性肺炎にでもならなければと心配していました。

 5/25の夜に初めて訃報を聞き、翌日電話で奥さんから詳しい話を伺いました。

 彼は健康に人一倍気を付けていて、48歳からダイエットを始め、総長就任後も毎週のようにゴルフをしたり、比叡山へ歩いて登るなど体を鍛えていました。

 喘息で小学校を落第し、その後も何度も死にかけて運動は何もしなかった私よりズット長生きすると思っていたのですが。

 健康というか寿命というものは全く予測不能で、思わぬところに伏兵があると言うか落とし穴があるか分からないなとしか言いようがないと感じます。

 長尾君は情報の分野で初めて文化勲章を受けました。

 音声自動翻訳、画像認識などを始めとする幅広い分野で今日の研究成功・実用化のゴッドファーザーであり、ひいては最近賑やかなビッグデータの走りを主導した先見性に優れた研究者でした。

 そしていつも先の新しい分野に目を向けていました。1972年、彼が教授になる少し前、私はNASAで働き、メリーランドに住んでいました。彼は私の家からNIHへ何日間か通い熱心に議論しているようでした。彼の研究とNIHの研究の何が関係するのか不思議に思ったことを思い出します。

 私が一時社長をしていた国際電気通信基礎技術研究所(ATR)の設立の時代から関わり、ズット指導してくれました。

 音声自動翻訳の研究では最初は文法などによる所謂「ルールベース」を採用して進めていましたが、言語には例外が多くウマク行きませんでした。

 その時長尾君が「ウマク行った例を集めてみたらどうか」と言ったそうです。この所謂「コーパスベース」が順調に行き、ATRの音声自動翻訳は成功し、世界で初めて実用化されました。

 十数年前私が社長の時これらの功績でATRから長尾君を日本国際賞に推薦し、受賞しました。

 振り返って見ると、これが長い付き合いの中で私が彼のために出来た唯一の恩返しでした。

【当時ATRには電電公社民営化に関わる金が湯水のように流れ込み、年間80億円が15年間続きました。音声自動翻訳、画像認識、バーチャル・リアリティ、ヒューマン・インターフフェイス、アーティフィシアル・インターフェイス、ロボティクス、光宇宙通信等、1980年代半ばだったその時代にはSFとしか思えないような研究が活発に行われていました。日本の主要企業からの出向者は勿論、世界中から優秀な研究者が蜜に群がる蟻のように集まって来ていました。ATRには当時外国からの研究者だけで200人以上いた時期がありました。その後それら研究者達が出向元へ帰ったり、世界中に散らばり活躍しています。今日世界で進む自動翻訳のルーツと人材は全てATRから出ていると言って過言でないでしょう。例えばピッツバーグのgoogleの研究開発拠点のトップは昔ATRにいました。世界の有名大学の教授になっているものも数多くいます。その源流の大元のひとつが長尾君です。】

 1980年代、2回の石油ショックから日本がいち早く抜け出した所謂「バブル」の頃、「日本の基礎研究ダダ乗り非難」が米欧諸国から噴き出て来ました。

「欧米が長年続けてきた基礎研究の成果を使ってボロ儲けしながら、その補充に協力しない」というものでした。しかし当時の日本の研究環境は金も仕組みも悲惨なものでした。

【国大協会会長の有馬東大総長が「大学貧乏物語」を出され、当時93あった国立研究所の代表幹事をしていた私も「日本の研究は行政のシステムで行われている。行政と研究はカルチャーが違う。仕組みから根本的な改革の必要がある」と新聞のコラムに連載したり、著書(研究の環境とマネージメント)で主張していました。】

 多くの人の努力で少しづつ研究の重要性が認識され、1995年に科学技術基本法が制定され、科学技術基本計画が5年ごとに国として策定されるようになりましたが、世紀が変わる頃、小泉内閣の行政改革の勢いの余波で、実は公務員定数削減の数合わせの手段として国立研究所の改革、即ち法人化、更には国立大学の法人化も行われることになりました。

 丁度長尾君は国大協の会長になっていて国立大学の法人化の仕組みを造る役割の中心を担いました。

 国立研究所の方の法人化は造幣局等と同じ枠組みの所謂独立行政法人になることになりました。

 私が特に懸念したのは、電波研究所・通信総合研究所は【それらの前身時代からいくつかの分野で多数の優秀な研究者を輩出し、その成果によって研究所の名前が世界に知られていました。しかし】突然、独立行政法人「情報通信研究機構」などと名前が変わると、どこの馬の骨か分からなくなってしまいます。最初からあれは優秀な研究所(COE)と世界的に認めてもらうには、あの人がトップならと知られる人に理事長になって貰うことが必要と思われました。

 元国立研究所の法人化の本格的な発足は丁度長尾君の京大総長の任期の終る直後でした。「もう宮仕えはイヤだ」と渋る長尾君を無理やり説得して初代理事長になって貰えました。発足時のNICTの多くの幹部たちから「期待した以上に効果があった」と聞いています。席の温まる間がないほど世界中を東奔西走してくれたようです。

【その後、当時の河野衆議院議長から長尾君に直接電話があり、理事長の任期を1年残して国立国会図書館長になりました。書籍のディジタル化を本格的に始めるなど大きな成果を上げたことはよく知られています。】

 あまり人を簡単に尊敬しない私も長尾君にはズッと一目置いていました。

 彼との長い付き合いが突然終わり、自分の人生の足元に大きな穴が空いた感じがしています。

 タダの優れた研究者というだけでなく、やはりモット幅広い大きな存在だったナと改めて実感しています。

 長尾君  有り難う

 ※  【 】はお別れの会では話さなかったが、背景説明のために追加したもの。

  

思いでの写真

思いでの写真

昭和34年3月電子工学科卒業の26名全員、長尾君は後列右から6番目

 

 

思いでの写真

長尾君が卒業論文で選んだ清野研究室

 清野教授は電磁気学が担当で、卒論のテーマも難しく、面白くないと不人気でした。それだけに自信のある優秀な学生が集まったのか、私の知っている卒業成績順位5番までの同級生のうち、1番、2番、5番の学生がこの中にいます。

 長尾君は大学院では丁度前田憲一研究室から独立したばかりの坂井研究室に所属しました。坂井研究室の看板の研究テーマは「音声タイプライター」即ち音声認識でした。

 

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日本国際賞受賞記念国際シンポジウム、長尾君は左端

 

 

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情報通信研究機構理事長時代の外国研究機関訪問:台湾工業技術研究院ICT研究所

 

 

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情報通信研究機構理事長時代の外国研究機関訪問:南カリフォルニア大学