お別れのことば

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吉川 左紀子

 本日は、このような集まりで長尾先生のお話しをする機会をいただき、心からうれしく思っております。

 私は心理学が専門ですので、学生として長尾先生から直接指導をうけたことはありません。ですが、自分の人生を振り返ってみますと、京大での院生時代、また 1997 年から 23 年間、京都大学に奉職していた時期に、一番多くのことを学びお世話になった先生は、長尾先生だったという思いを新たにしています。

 長尾先生は、工学系の先生には珍しく、というと工学の先生に怒られるかもしれませんが、人間の心を深く理解することに強い関心をもっておられました。そして心理学や認知科学  の研究が京大の中に根付くよう、私たちに実にさまざまなサポートをしてくださいました。

 長尾先生が京大総長だった 2002 年、今から 20 年前に、複数の研究科に分散している心理学や認知科学の先生たち数十名が京大心理学連合を作り、「心の総合的研究」をめざす拠点を立ち上げました。そのときに、心理学研究では世界をリードするミシガン大学に、多数の京大の教員や院生が訪問して心理学のシンポジウムを開催しました。このとき、長尾先生ご自身がこのシンポジウムに参加してくださったのです。ミシガンの学長とも親交を深めてくださり、とても心強かったことをよく覚えています。

 時期がさかのぼりますが 1980 年代、長尾先生が機械翻訳の仕事をばりばり進めておられた頃に、私は先生が立ち上げた「対話研究会」(通称対話研)に参加していました。当時、文学研究科や教育学研究科など文系の院生たちが多数参加して、工学部電気工学教室で研究会が行われていたことは、今思えば、とても珍しく画期的だったと思います。組織の枠を超えて学生同士が交流することや、分野の境界を越えて学際的な発想で研究を進めること などは、今ではかなり進んできましたが、おそらく京大の中でもっとも早くにこうした試みを始められ、成果をあげていたのが長尾先生の研究室だったと思います。

 私が京大に勤めるようになってからも、長尾先生に背中を押していただいた経験は本当にたくさんあります。2007 年にはこころの研究を推進するこころの未来研究センターが設立され、心理学者や脳科学者、宗教学者を中心にいろいろな新しい試みを行いました。ちょうど長尾先生が国立国会図書館長に就任された年でしたが、3 月にわざわざ私の研究室まで来られて激励してくださいました。

 センターがスタートした当時は、学際研究はうまくいかないとか、こころを研究して何が明らかにできるのか、と多くの人たちから心配されましたが、そのとき私の心を支えたのは対話研での経験、そして学際研究が未来を拓くという、長尾先生から学んだ姿勢だったと思います。

 その後、長尾先生は、こころの未来研究センターで企画したプログラムにも折々によく参加してくださいました。2014 年の 4 月に、ダライ・ラマ 14 世が京都を訪問して科学者、研究者との対話を望んでおられるので一緒にシンポジウムをしませんか、という依頼がアメリカの Mind and Life Institute からきたときに、科学と宗教の対話ということで長尾先生に登壇をお願いしました。ダライ・ラマのような宗教者を招へいして大学主催の研究集会を行うことには、学内外からさまざまな意見がありましたが、長尾先生は「おもしろい企画ですね。いいですよ!」とすぐに承諾してくださり、勇気が湧いたことをよく覚えています。

 長尾先生は人間のこころに深い関心をもっていました。先生がこころについての論考を最後に発表されたのは、2021 年 2 月発行の『<こころ>とアーティフィシャル・マインド』(創元社)の 1 章として書かれた、「令和二年  こころのモデルを考える」だと思います。この章の最後のパラグラフには、こころと芸術の関係についての印象深い考察が記されて います。私は、ご縁があって 2020 年 4 月から京都芸術大学に勤めており、長尾先生が残されたことばから、これからもずっと学び続けるだろうと思っています。そしてもし今、心と芸術について先生とお話しすることができるなら、どんなお話しをするだろう・・・と思いを巡らせています。

 長尾先生に最後にお会いしたのは、2020 年 2 月 23 日、私の京大定年退職のシンポジウムに来てくださったときでした。国際交流ホールでの懇親会で、長尾先生に祝辞をお願いしていたのですが、直前に行われた京都府副知事のスピーチのときに会場がざわざわしていて皆あまり聞いていませんでした。すると先生が開口一番、「副知事のご挨拶は皆、きちんと聞かなければいけません」とびしっとおっしゃったんですね。懇親会に来られていた方の多くは私と同じ世代の先生がただったのですが、長尾先生の言葉にピッと背筋が伸び、学校の先生に叱られた生徒のような感じになって、思わず笑ってしまいそうになったことをよく覚えています。

 長尾先生とのご縁は、私が大学院生の頃から今まで、40 年以上になります。先生のご長女は画家で、京都芸術大学(当時は京都造形芸術大学)に勤めておられたのですが、今年の始めに、素敵な洋画が 3 点、大学の美術保管庫にあることを知りました。大学の壁に飾って、多くの方に見ていただきたいと思っているのですが、最近美術品管理の仕方が変わり、まだ実現できないでいます。長尾先生から「待っていますよ」と声が聞こえそうな気がしますので、できるだけ早くに実現しようと考えています。

 長尾先生は、私の世代の京大生にとって「新しい知の世界の開拓」の厳しさと楽しさを教  えてくださった先生であり、直接薫陶をうけた教え子だけでなく、周辺で学んでいた私のよ  うな学生にも大きな影響を与えてくださいました。私の人生にとって、京都大学での長尾真  先生との出会いは、本当に大きな幸運でした。長尾先生に心からの感謝の気持ちをお伝えし、先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

 ありがとうございました。