ご挨拶

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遺族代表 長尾 卓

 家族を代表しまして、長男である私、卓(たかし)の方からご挨拶させていただきます。

 先ず父が亡くなりまして一年のこの会にあたりまして、天皇陛下より祭粢料としてお気持ちを賜っております。これは非常に光栄でありがたいことだと思っております。そして、この会には湊総長先生をはじめ松本元総長先生、畚野先生、辻井先生、吉川先生よりお気持ちのこもったお言葉を頂きまして非常にありがたく考えております。ありがとうございます。

 また、このコロナの若干慌ただしい中で、こんなにもたくさんの皆様にお集まりいただき非常に父も喜んでいるかと考えております。ありがとうございます。そしてこの会、お別れ会を開催のためにかなり尽力していただきました黒橋先生、中村先生、河原先生、また担当いただいている皆様には非常に感謝しております。ありがとうございます。

 今日は、私から父の思い出とでもいいますか、二つお話させていただきたいと思っております。一つは私から見た父はどのような人であったのか、というお話と、もう一つは父が残している言葉の意味について、これは私の解釈となるのですが、これについてお話させていただきたいと思います。

 先ず私自身の話ですけども、私にとって長尾真という人物は当然よき父でありました。それだけではなくて私自身が大学の一回生の頃は先生として父の講座を取らせていただいておりました。また四回生の卒業する頃、卒業にあたっては総長として私に卒業証書を授与してくれるというような、少し複雑な関係でもありました。

 そんな私から見て長尾真という人物なんですけど、本人自身は情報学者であると言い続けております。学者ですね。ですが私から見た長尾真という人物に関しては、学者というだけではなくて学問者という言葉を勝手に作って私は使っているんですけれども、そういう位置付けだと私は捉えています。意味としては学問をする者という意味ではなくて、学ぶとは何なのか、学ぶとはどういうことかと問い続ける者という意味での学問者というような言葉が私の中では父を表すうえで、比較的しっくりくる言葉として考えております。

 そういったことについていろいろ丁寧に考えて、一つずつ積み上げるように考える父ですので、亡くなるには大変まだ早かったというふうに思うのですけれども、自分が亡くなった後の事に関しても、きっちりと考えていて、家族のほうに書き残してくれていました。その中でひとつ残してくれている言葉としてお墓の霊標の方にも刻まれているのですが、「生死なき本分に帰る」という言葉があります。こちらに関しては、元々はどうやら仏教のブッダの教えのひとつのようです。ここで長尾先生は神道の人だったじゃないかと思っていただける方も多いと思うのですけども、父にとってはおそらく長く信仰されている宗教についてはその本質として重なる部分が非常多いということで、本質的に正しいのであって、自分が価値があると思えば、それが仏教であろうと神道であろうと、自分の霊標にふさわしい言葉として残すと考えていたのではないかと思っています。そういうところが、何ものにもとらわれず本質を考え続けるという、父の姿に非常に一致していると私には思われます。

 ではその「生死なき本分に帰る」という言葉ですけど、本分という意味は、辞書的には本来果たすべき責務・義務という話です。ですが、おそらくここでは本来あるべき姿、本来あるべき形におさまる、そういう意味で言っているのであろうと私は推測しております。また、生死なきという部分ですが、生きるも死ぬも無いのか、何も無いのか、無なのかと思われるかもしれませんけれども、おそらくそうではなく、生きているとか死ぬということに関しては、物理的には非常に特殊な状態、生きていることは奇跡的な状態ということだというふうに捉えて、残念ながら父は亡くなってしまいましたが、その亡くなった後については、生きる死ぬということ、特殊な状態を超えて普遍的な状態に落ち着くということ。その普遍的な状態とはどういうことかというと、おそらく父が考えてきたことであるとか、父の業績であるとか、やってきた仕事、そういうのが社会に広がる、社会に反映され、また皆様の例えば思考パターンであるとか判断基準であるとか、そういうところに影響を与え広く行渡っていくと。父が生前は、長尾真という人物にそれが集約・結晶されていたのですけれども、亡くなった後に関してはそれが世の中と皆様のなかに、私たちの中に広く行き渡って普遍的なものとして定着していく。そういったことを考えたのではないかと考えております。

 これはもちろん私個人の意見というか考えですので、父本人が実際にどう考えていたのかというところについては私もわからないところもあります。ですが、私の中での父親長尾真という人物であれば、そういうことも考えていたのではないかと。また、これに関しては皆様が日々の生活、もしくは私が例えばもっともっと歳を取って経験を積み、その時点でまた思い返してみると違う風に捉えられるかもしれません。ですが、今現時点で私の中では先ほどお伝えしたような解釈という感じで父が考えたのではないかというふうに思っております。

 この先、父が亡くなり一年が経ちまして、私たち家族も、ここにお集まりいただいている皆様もそれぞれ前を向いて歩いていらっしゃると思いますけれども、その中で父の考えたこと、父の業績、父の思考パターン、そういったものが広く行き渡り、本来、生死なき本分という形で定着していくことが実現されれば、家族としては非常に喜ばしいことと考えております。

 今日は私から父の思い出、私から見た父はどういう父だったのかという話と、その父が残した「生死なき本分に帰る」とはどういう意味だったのかということを私なりに解釈してお話させていただきました。これをもちまして私からのご挨拶とさせていただきます。

 本日はどうもありがとうございました。